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神楽坂での暮らしの紹介他


by kagoora04

歴史ある坂道

「神楽坂(かぐらざか)」には歴史があります。

もともと江戸時代、大老坂井忠勝が坂上の矢来町に屋敷を構えた1628年頃、坂下には江戸城の外濠である牛込見附が完成しました。このふたつを結ぶ約1kmの大老登城道が造られました。言ってみればこの大老の通勤路です。その沿道は武家屋敷として地割りされました。これがほぼ現在の「神楽坂通り」です。その当時、この坂は「坂道」ではなく、「階段」だったそうです。それが今のような坂道になったのは明治時代に入り武家屋敷が撤去され、神楽坂が町人の街になった後の明治10年頃のことだそうです。
チョット意外でした。最初は階段だったとは。

またこの坂の名前の由来に関しては諸説ありますが、この坂の右側にあった高田穴八幡の旅所の前を祭礼で神輿が通るときに神楽を奏したから、また「若宮八幡宮」の神楽の音がこの坂まで聞こえたからともいわれています。

明治28年、甲武鉄道牛込停車場の開設をきっかけに神楽坂周辺は商店街や住宅地として急速に発展しました。百貨店も軒を連ね、明治時代後期には牛込区第一の繁華街となりました。大正から昭和の初期にかけて新しい東京の盛り場として賑わい、「山の手銀座」と呼ばれました。とくに善国寺毘沙門天の縁日は人気を集めました。当時神楽坂は、硯友社や早稲田派の文人らが集い、活動する場であり、早稲田大学の学生らの町でもありました。

昭和に入り、神楽坂は花柳界の最盛期を迎えます。新旧2軒の見番(芸者衆の手配、玉代の計算などを行う花柳界の事務所や稽古場のこと)があり、600人を超える芸妓さんがいたそうです。その花街の活気を思わせるのが「芸者新道」という坂(通り)です。
その後空襲により焼け野原となった神楽坂、戦後の復興は容易ではなかったようですが、昭和30年代には再び最盛期を迎えました。
多くの鉄鋼業界の権力者や政治家が神楽坂の料亭を利用したそうです。

現在ではその面影も薄れてきていますが、ここ神楽坂には表通りの賑やかな商店街だけではない、色々な顔を持っています。
花街時代の趣の残る料亭街や表通りとは一味違う横丁商店街や飲食店街、古くからの出版社や印刷関係の会社、オフィスエリア、そして閑静な住宅街。
この多面性と温かさ、懐の深さはここ神楽坂の歴史と文化が育んだものだと思います。
by kagoora04 | 2009-03-06 10:25