神楽坂での暮らしの紹介他


by kagoora04

街への愛情

かつて賑わいを見せた多くの商店街や住宅街の多くが今や寂れて、大型チェーンやコンビニなど以外には何もない、という例をよく目にします。

でも、ここ「神楽坂」は違います。
今だに多くの商店街や飲食店、レストラン、その他個性的な店舗や施設が立ち並び、その中にも昔ながらの面影も残し、風情ある景観のなかに住宅街も存在するという生活感もある、活気のある街です。

2000年以降、一時期チェーン店やコンビニの進出、高層マンションの建設などで神楽坂特有の雰囲気が失われかけましたが、地域を大切に、そこで活動する人達はまだまだ多く、実際様々な活動が行われています。

ここでいくつかサイトを紹介したいと思います。

まず一つ目が
http://www.kagulart.com/
「かぐらーと」です。

ここでは神楽坂発信のアート・エンターテイメント情報を紹介しています。
演劇、映画、ダンス、アート、音楽など本当に多岐にわたっています。また、カフェでのフランス語講座や呉服店での着物講座など、気軽で魅力的な教室も開催されています。

次に紹介するのは
http://www.ikimachi.co.jp/
「粋まち」です。

神楽坂の伝統と文化を大切にまちづくりNPOから発展した法人サイトです。ここではおもに寄席などのイベント紹介や各種講座の案内、また普通の観光案内では体験できない、本物の日本の文化や風情、芸能を体験できるツアー企画などを紹介しています。


これらのサイトを見ていると、本当に地域の方々の神楽坂への「愛」を感じます。

この愛情こそがその土地を育て、特色ある街に成長させているんだと思います。

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# by kagoora04 | 2009-03-06 10:30

文化の足跡

ここ神楽坂周辺には文化の香りが多くあります。

周辺のには、東京理科大学・法政大学があり、また東京日仏学院をはじめとし、フランス関係機関の多さから、フランス人をはじめ海外からの人にもよく会います。

歴史的にも有名なのはやはり「夏目漱石」に関することでしょう。

早稲田駅西口を出て「早稲田駅前交差点」から夏目坂をのぼりかけたすぐ左手に出てくるのが『夏目漱石誕生之地』と刻まれた黒御影石の記念碑です。

夏目漱石は慶応3年(1867年)1月5日にこの地で生まれました。現在の住所では「喜久井町1番地」です。
誕生の地から若松町の方へと上るこの坂を「夏目坂」と命名したのは、ナント漱石の父・直克だそうです!このことは漱石自身、随筆「硝子戸の中」に書いています。すごいと思いませんか?いろんな意味で。さすがに当時は一般的にその名前で呼ばれていたとは思いませんが。

また、弁天町の交差点から外苑東通りに入り、保険センターから右手に入ったところには、漱石が明治40年9月29日に転居してから、『坑夫』『三四郎』『それから』『門』などの代表作を発表し、創作活動の大半を過ごし大正5年に亡くなるまで住んだ、漱石山房跡と呼ばれていた場所が「漱石公園」として整備されています。

ここには漱石の胸像や「吾輩は猫である」のモデルとなった飼い猫を供養した「猫塚」などがあります。


その他にも、表通りから一歩入った静かな路地には、住宅街のなかにレストランや料亭などが多く建ち並んでいます。ここはかつて江戸時代には蜀山人、明治期には尾崎紅葉や泉鏡花など多くの文化人が住んでいました。いまでは尾崎紅葉旧居跡は新宿区指定史跡、泉鏡花の旧居跡は新宿区登録史跡になっています。
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# by kagoora04 | 2009-03-06 10:28

歴史ある坂道

「神楽坂(かぐらざか)」には歴史があります。

もともと江戸時代、大老坂井忠勝が坂上の矢来町に屋敷を構えた1628年頃、坂下には江戸城の外濠である牛込見附が完成しました。このふたつを結ぶ約1kmの大老登城道が造られました。言ってみればこの大老の通勤路です。その沿道は武家屋敷として地割りされました。これがほぼ現在の「神楽坂通り」です。その当時、この坂は「坂道」ではなく、「階段」だったそうです。それが今のような坂道になったのは明治時代に入り武家屋敷が撤去され、神楽坂が町人の街になった後の明治10年頃のことだそうです。
チョット意外でした。最初は階段だったとは。

またこの坂の名前の由来に関しては諸説ありますが、この坂の右側にあった高田穴八幡の旅所の前を祭礼で神輿が通るときに神楽を奏したから、また「若宮八幡宮」の神楽の音がこの坂まで聞こえたからともいわれています。

明治28年、甲武鉄道牛込停車場の開設をきっかけに神楽坂周辺は商店街や住宅地として急速に発展しました。百貨店も軒を連ね、明治時代後期には牛込区第一の繁華街となりました。大正から昭和の初期にかけて新しい東京の盛り場として賑わい、「山の手銀座」と呼ばれました。とくに善国寺毘沙門天の縁日は人気を集めました。当時神楽坂は、硯友社や早稲田派の文人らが集い、活動する場であり、早稲田大学の学生らの町でもありました。

昭和に入り、神楽坂は花柳界の最盛期を迎えます。新旧2軒の見番(芸者衆の手配、玉代の計算などを行う花柳界の事務所や稽古場のこと)があり、600人を超える芸妓さんがいたそうです。その花街の活気を思わせるのが「芸者新道」という坂(通り)です。
その後空襲により焼け野原となった神楽坂、戦後の復興は容易ではなかったようですが、昭和30年代には再び最盛期を迎えました。
多くの鉄鋼業界の権力者や政治家が神楽坂の料亭を利用したそうです。

現在ではその面影も薄れてきていますが、ここ神楽坂には表通りの賑やかな商店街だけではない、色々な顔を持っています。
花街時代の趣の残る料亭街や表通りとは一味違う横丁商店街や飲食店街、古くからの出版社や印刷関係の会社、オフィスエリア、そして閑静な住宅街。
この多面性と温かさ、懐の深さはここ神楽坂の歴史と文化が育んだものだと思います。
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# by kagoora04 | 2009-03-06 10:25